「三次元とはフィジカルの空間 (real space)のことである。[※7]ヨーロッパの美術品の中でも最も重要で不愉快な遺物の一つであるイリュージョニズムの問題と、文字通りの空間、空間の中にある図像や色の問題を取り除く。明らかに三次元の中では何ものも何かしらの形を持ち、壁、床、天井、部屋、部屋と部屋の間の関係やその外延などと何かしらの関係を持つことができてしまう。全てのマテリアルが使われるか、描かれるかである。」[※8]
のちにミニマルアートやソフト・スカルプチュアと呼ばれる作品を抽象主義絵画の表面(surface)と平面(plane)に注目して結びつけようとした時、注目されなかった展示空間に「フィジカルな空間(real space)」という言葉を与えて注目したことは、のちのインスタレーションという形式の予見と考えることもできる。しかし、イリュージョニズムの問題はフィジカルな空間によって排除できたものではない。
空間の中ではあらゆるものがあらゆる形を持って存在し、空間を構成するものと何かしらの関係を持つ、ということは果たして真であろうか。その「関係」自体が形とならず、目に見えない限り、確かだと言えることはなさそうだ。しかし、このように言いたくなるのも、インスタレーションはものの配置の関係性によって発するアトモスフィアによって作品となり、私たちがその関係性に何がしかの美しさを見出したりすることができるからである。
《work with》シリーズの鳴る音によって生まれる響きは、音であるため形を持つことはない。しかし、音というものも空気をメディウムとし、重力下でしか伝わることがない時点で、本来ならば彫刻的な関心とも言える。また、一つの音の鳴りではなく、複数の音による響きであることが、たくさんのものともの、ものとフィジカルな空間との関係性を結んでいることを比喩的に示す。このような感覚の立ち上がりを私はアトモスフィアと呼びたいし、それがイリュージョニズムと極めて似ている感覚だとしたら、インスタレーションというのもイリュージョンのアートなのである。
けれども、このような言葉だけでは今尾の何度も異なる場所で行われる《work with》シリーズを十全に論じることはできないだろう。同じコンセプト、同じ仕組みでありながらも異なる場所、異なる様相の作品が形態だけで論じることができないということは、筆者であるところの私も承知しており、なぜ、このような長い前置きをしたかというと、彫刻でもない、インスタレーションでもない(だが、同時に彫刻でも、インスタレーションでもある)と言える時に何が浮かび上がるかというのをジャッドのように論じたいからだ。
フェルトやレモンなどの「ソフト」な材質を用いるボイスが「社会彫刻」といった別の彫刻の一ジャンルを築き、新三次元芸術があらゆるものと空間に関係性を持つと気付いたとき、そこに遠く揺らめくのは「都市」の姿である。種々の人が建物や地形に個々の関係性や公共的な関係性を結ぶことで馴染んでゆく都市の姿である。若かりし今尾が彫刻を学ぶか、建築(環境デザイン)[※9] を学ぶか悩んだというのは、結果的に今の彼のスタンスがひとつつなぎであることを示しているエピソードでもある。彼がこのような二択に至った背後に筆者であるところの私は彼が生まれ育った街である京都という「都市」を見出してしまう。