分裂することを求められている気がした。空間から要請されているような気が。ある程度は従い、ある程度は従わなかった。それも予期されていたことなのだろうか。疲れていった。疲れると、大きなものに吸い寄せられるようにして、私はあなたたちの仲間であるふりをした。その方が楽だった。次第にふりをしていることを忘れた。あなたたちの仲間だった。けれどL字型のバーカウンターのなかにいた。その範囲で音を聞き続けた。移動を制限されているということだった。聞こえる音が変わらない状態でいるということだった。固定されていた。聞こえる音もまたそうだった。時間も固定されているということだ。それはこう思う。もしかして私の体はバーカウンターなんじゃないか?
空調のスイッチが入っているか、止まっているか。音が鳴っているか、止まっているか。
ふたつに分けることのできる状態が空間を支配していた。私もそれに組み込まれていた。バーカウンターだったから(体がモノと化しているというよりは、体の範囲が拡張しているという感覚。自分のプライバシーがバーカウンターのなかでは確保されているのだと、強気になる)。なにか二分できるものをあてにしてものを考える、という心理状態になっていた。かなり危ういことでもあったし、境界があることでそれらの境を行き来したり留まったりすることができた。音が鳴っている時間、音の層が幕としてかかったように来場者の存在感が変わった。物質めいて見えたり、声を出すあなたたちが楽器のように見えた。空調と共に音が止むと、声は人の声へと戻っていく。生々しい。この空間のなかで異質なもののようだった。空間を、ダクトを、あなたたちを見ていたが、来場者が増えてくると感覚が切り替わっていった。空間は音ではなく人によって成り立ち、今度は音の方が異質になる。人が減ると集中力は音に引き寄せられた。音と人が互いの気配をせめぎ合わせるようにして空間のバランスを取っていた。考え方は音と時間と共にあった。人の出入りが考え方を喚起した。換気した。入れ替えた。揺らした。これは時間についての文章だ。あの場にいた8時間、同じこと、似たこと、それらの反復、少しずつのズレが無数に起きた。音はいちばんの意味として流れ続けていた。バーカウンターも変わらずあった。私は疲れることでそれらから切り離された。無防備になる。音があけすけにやってくる。パンクしそうだ。こんにちは、といいながら無になる。体を空間に預け切る。怖くなる。ここから出たらどうなる。私は外の時間に耐えられるのか? と。